ノイジー・マイノリティとサイレント・マジョリティ

目に見えないものをどうやって扱ったら良いのだろう?最近ブラウジングをしていて注意を引かれた言葉に「ノイジーマイノリティ(noisy minority)」があります。これは、

 「声高な少数派」を意味し、サイレント・マジョリティの対義語とされる。ラウド・マイノリティとも言われる。…
 その過激かつ積極的な姿勢のため、実際には少数派であるにもかかわらず、隠健かつ消極的な多数派よりも目立つ傾向がある。実質的にクレーマーと同等の意味合いを持つ。

 元来、社会的少数者たるマイノリティは、社会的な偏見や差別や抑圧に対する改善要求を社会的多数者に認知させることにより、ポリティカル・コレクトネスの形で実社会に反映させることがあるが、ノイジー・マイノリティとは、そういった正当な社会的運動の対立概念として扱われるものである。

 なお、明確な基準が存在しないため、実態に即した用法の他、社会的対立の中で敵対者集団に対するレッテル針に用いられるケースも存在する。
ノイジー・マイノリティ – Wikipedia ノイジー・マイノリティ - Wikipedia(2014年2月時点)

NOISY MINORITY

僕がブラウジングをしていて目につく発言が、明確な意味での「マイノリティ」という属性を持つ人から発せられたものかどうかは分かりません。けれど、ネット上での過激かつ敵意のこもった叫びの比率は、必ずしも、実生活における自治体だとか国だとかの範囲で、大多数の持っている人の考えでは無いと思うのです。

それは、ある意味当然のことでしょうし、そんなことは言わずもがななのでしょうが、企業がドラマのCMを降りたり、Twitterでの倫理観に欠けるツイートに対してその個人が所属する比較的大きな集団に対してレッテルをはって攻撃するシーンを見たりすると、その「言わずもがな」が通じない文脈やら状況やらがあるのだなあと思う訳です。

目に見えるものと見えないものの間で

ウェブに限ったことではないですが、「やったもの勝ち」「攻撃したもの勝ち」な所があるのも真実です。けれど、それが全ての状況に適用される法則ですか?と問われるなら、私の答えは「No」です。

主張しなければ相手には伝わらない、意見を戦わせなければいけない、ハッキリ声に出さないと誰もわかってくれないよ!・・・と確かに良いことなのかもしれませんが、そんな一方向に突っ走る正しい社会は個人的には、面倒くさくてついていけそうにありません。クラス全員ベッキーみたいな教室では、中学の頃の自分をふり返っても絶望的な気持にしかなれないなと思います。

人間や社会なんて、混沌でしかない。それを認めたうえで、どうやってその時のベターに近づいていくのかを考えた時に、一方向的な理想へ向かっていったり、とりあえず全てを主張し、表出し、前面に出てきたもので判断をするという形が必要なのでしょう。

けれど、それだけじゃないステップをどうやったら踏み出せるのか?ということもソロソロ考えても良いように思います。ネットでの誹謗中傷書き込みへの感想として、よく「これだから日本には住みたくない」という意見を目にしますが、僕はそうまでは感じないです。ニッポンの生活の中で、電車で席を譲る人も多いし、お店の人は多くの場合丁寧だし、身の回りに露骨に攻撃を仕掛けてくる人もそんなにいない。穏やかで注目されないやさしい日々が、淡々と繰り返されてもいるのも日本だと思うんです。それは、テレビに出る派手な友愛やハッピーでフランクでケセラセラな態度とは違っても。そういう映されないもの、取り上げられないものを、どうやって続けていけるかを個人的には考えていきたいと思うのです。それが、サイレント・マジョリティという、消極的でネガティブなニュアンスを含む羊の群れに自分が埋もれていくことであったとしても。

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