生きている僕から見れば、「死の恐怖」は数ある悩みのひとつに過ぎない

死後の生について決定的な証拠はまったくない。だが、それを否定するいかなる種類の証拠もない。もうすぐきみにわかることだ。とすれば、なぜそのことにいらだつんだ?

愛に時間を 1 ロバート・A・ハインライン

この数日、死や死後の世界、自分の意識の消失とか、そういったことばかり考えていた。生命と死の謎を解決しないことには、自分の生活を送ることができないような切迫感に駆り立てられてきた。

結局のところ、その蓋を開けた先には「恐怖」しかなかった。

ボクは最早、死後も生命や意識、魂が残ることを信じて、自分を安心させることはできない。

ここ最近のボクときたら、何をするにも、自分がいつか死んでしまうという「理不尽な決まり」への憤りを感じて、集中することができなかった。自分に何か命に関わる病気が潜んでいるんじゃないかと、体の違和感を虱潰しに探したりもした。

ボクは、死んだ後の自分が可哀想でしょうがなかった。不憫で成らなかった。そうやって頭の中でのたうち回った結果、一つの重要なポイントに辿りついた。

この数日、死について考えるとき、ボクは死後の視点から人の生命を見ていたのだ。けれども、ボクは、生きている自分の視点から死を見つめるべきだったのだ。

これは、岸本英夫の『死を見つめる心』に書いてあったことだ。

人間には無ということは、考えられないのだということである。人間が実際に経験して知っているのは、自分が生きて生活しているということだけである。人間の意識経験がまったくなくなってしまった状態というものは、たとえ概念的には考えても、実感としては考えられないことである。その考えられないことを人間は、死にむすびつけて、無理に考えようとする。そこで、恐ろしいこととなるのではないか。・・・この点に、まず気がついてみると、生きている人間である自分が、死を考える場合には、このように死と、このわからないものとを結びつけるような角度から考えてはいけないということであった。

私は、その絶望的な暗闇を、必死な気持ちで凝視しつづけた。そうしているうちに、私は、一つのことに気がつき始めた。それは、死というものは、実態ではないということである。死を実態と考えるのは人間の錯覚である。死というものは、そのものが実態ではなくて、実態である生命がないところであるというだけのことである。・・・死の暗闇が実態でないということは、理解は、何でもないようであるが、実は私には大発見であった。これを裏返していえば、人間に実際に与えられているものは、現実の生命だけだということである。・・・死というのは別の実態であって、これが生命におきかわるのではない。ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことである。

死を見つめる心 (講談社文庫)

結局の所、死んだ後の自分をどうしたら良いか、という問いの立て方自体が間違っていた。岸本英夫の言う「現実の生命」を大切にするというのは、「死」を眺めるのなら、生きている自分の側からしか見ることができないということだと思う。

確かに、死んだ後に自分がどうなってしまうのかということは、気になる。怖い。絶えられない。けれども、そちら側から生命を見ることは不可能だ。死んだことなどないのだから。何も、確かなものがない所で論理を組み立てることはできない。そこには、無理が生じる。

そして、少なくとも僕らは確かなものを持っている。それは、これまで生きてきたこの世界についてのものだ。

死について考える時、何か真理や悟りのような物を求めてしまうんだけれど、僕らが掴みうる答えがもしあるのなら、それはきっと俗っぽいものなのだろう。そうして、その答えを得られる保証もなければ、得る必要も無いかもしれない。怖いけれど。

皆、仕事や人間関係、家族について悩みを持っている。この今の生活という視点に立てば、死の恐怖も結果的にそういった数ある悩みの一つに過ぎない。

そうして、やるべきは答えが得られなくても、自分が目指すものや大切にするものに真摯に向き合っていくことなのだと思う。恐怖を抱えたまま、人生を走り抜けるってことが、今の時点でボクがひねりだせる答えなのだろう。さて、明日もしっかり命をつかって生きてみよう。

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