家族を看護しながらの生活とニーバーの祈り

神よ

変えることのできるものについて それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。

変えることのできないものについては それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを 識別する知恵を与えたまえ。

O GOD,

GIVE US SERENITY TO ACCEPT WHAT CANNOT BE CANGE,

COURAGE TO CHANGE WHAT SHOULD BE CHANGED,

AND WISDOM TO DISTINGUISH THE ONE FROM THE OTHER


ニーバーの祈り – Wikipedia ニーバーの祈り - Wikipedia

突然ですが、ある程度の期間、私は家族を看護しながら生活することになりました。これは二度目の看護生活になりますが、そこで「こんな心持ちで生活できたら良いな」というスローガンのようなものを書き残しておきたいと思います。

まず、その前に私はキリスト教信者でもなければ、一般的な宗教に信心深いほうではありません。けれども、ニーバーの祈りは役に立つスローガンだと思います。そして、このエントリはあくまで“僕のスローガン”であって、正しさの主張や、そうでない意見の批判ではありません。

しっくりとこない普通とは違う日々

僕は、看護生活をしたとしてもあまりに今の生活からガラリと性格が変わったように日々を送ることはできません。すべてをあきらめてしまったり、「全く我慢しなくて良いんだ」と思ったり、すべて人に任せてもいいんだとか、自分のことは全部後回しにしなくてはいけないとは思いません。

あきらめなくてはならないこと

けれども、あきらめなければならないことはあります。これは看護生活に限ったことではありませんが、成り行きに任せる他ないことが歴然とこの世には存在しているのです。さらに言えば、起こってほしくないことが起こってしまう可能性だって“ある”のです。

僕が手放したいのは、何事も自分の思い通りにコントロールしようとすることです。これはあきらめなくてはなりません。未来の不確実さ、他人がどんな気持ちになるか、病状がどんな経過を辿るか。それは起こってみなければ分かりえない。

また、受け入れるとか、あきらめるとかっていうことは苦痛を感じないことや、不平を全く持たないということではない。それは、「甘受する」「甘んじて受け入れる」ということだ。自分の思い通りではないけれど、自分には動かしようのないことなので、認めるより他ない。そういったもだと思う。

追える夢だってある

看護生活は大きな変化だ。確かに制約は生じる。けれども、同時に自分の仕事やライフワークに取り組むことだってできる。全てが不可能なわけじゃないんだ。本当に自分にとって大切な仕事(ライフワーク)が分かっているのなら、それにつながる小さな進歩を積み重ねることはできる。何も進んでないように見える地面にも、足跡を残していくことは色々な形でできるのだ。

知恵よりも「あがく勇気」が必要だ

もっとも重要なのは、はじめから自分には変えられないことと変えられることとを知ることはできないという点である。この物事の見分けには試行錯誤が不可欠だ。あがいて見なければ、それが本当にできないことなのかどうかは分からない。自分の可能性は、あがきというプロセスを経て広げることができる。一方で、自分がやれるだけのことをやったけれど無理だったときには、それを甘受するだけのことである。

まとめ

要は、僕はダイナミックに、形を決めず、変化し続けながら、家族の大きな出来事に付き合っていきたいな、と思っているわけです。


Wait&See~リスク~

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