落語の世界観 ―人間はまぬけで美しい―

人間はまぬけで美しい

これは、落語家経験を持つ伊集院光が自分のやりたいお笑いについてラジオで語った言葉です(伊集院光の人間観 – 凹レンズ 〜まとまりのない日記〜 伊集院光の人間観 - 凹レンズ 〜まとまりのない日記〜)。桂米朝が2015年3月19日に亡くなり、彼の著書である「落語と私」を読んでみました。

私は落語に触れる機会は少ないけれど、伊集院光のラジオが好きで、その世界観にとても興味をもっていたし、ツイッターなどでこの本が絶賛されていました。


この本は子どもへ向けて書かれており、表現が非常にわかりやすく、そして落語家独特のことなのか自然と興味が本の中に集中していき、とっても楽しく読むことができました。そこで、本エントリでは、桂米朝の語る落語の世界観について紹介します。

桂米朝の語る落語の世界

落語家はメーキャップもコスチューム(衣装)もありません。素顔に高座着、扇子と手ぬぐい、舞台の背景も小道具もありません。しゃべるだけの芸です。したがって雰囲気というものが非常に大事なのです。

また、映画や歌舞伎、紙芝居などと比較して、落語には視覚的媒体が極めて少ないことが説明されます。だからこそ、物の置き方、視線の向け方、部屋の大きさを想定した声のかけ方、振り返り方など落語家の機微が重要な役割を果たしていきます。意識的・無意識的にでも立体感を持った世界を想定していることが重要になってきます。もし、その点が不十分であると違和感が生じます。

この違和感というやつが落語の場合、非常に困るものなのです。背景も衣装もメーキャップも小道具もない落語ですから、ただおしゃべりによって、何のこだわりもなく自然にはなしの世界にはいって来てもらわなければならないのに、ちょっとした気持ちのひっかかり、抵抗感、これがあると困りますね。

そして、落語家の声、調子、視線、ふるまいによって、リアリティを伴って動き出す世界をありありと構成していきます。しかし、それが「凄い」という所で終わらないのが落語らしさです。落語の最後には必ずサゲ(落ちのこと)があります。

サゲ……というものは一種のぶちこわし作業なのです。さまざまのテクニックをつかって本当らしくしゃべり、サゲでどんでん返しをくらわせて「これは嘘ですよ、おどけ話ですよ」という形をとるのが落語なのです。

落語は、物語の世界に遊ばせ、笑わせたりハラハラさせたりしていたお客をサゲによって一瞬に現実に引き戻す。そしてだました方が快哉を叫べば、だまされた方も「してやられたな、あっはっは」……と笑っておしまいになる、いわば知的なお遊びです。

粋とは、こういうことを言うんだろうなと思いました。桂米朝の解説は解説であるにもかかわらず、かくあるべきという頭でっかちでなく、落語の雰囲気を味わいたくなる丁寧な語りでした。いつか生で落語を見てみたい。

落語 天狗裁き 桂米朝さん 落語 天狗裁き 桂米朝さん

落語国の人々と人生と死と

そして、最後に「やっぱりこの本を読んでよかった」という文章が待っていました。

好人物で働き者で、小心で律儀で、そのくせ、適当に欲も深くて、酒が好きで遊ぶことも好きで、世間のつきあいがよくて……、おっちょこちょいで、野次馬根性があって、人の噂ばなしが好きで、適当に正義漢で感激やで世話好きで、子どもはたいていこましゃくれていて、おかみさんはみな、世話女房でおしゃべりが好きで、苦労性でそのくせ楽天家で、ぬけめがないかと思うと、損ばかりしていたり……。

偉大な人物はいないかもしれませんが、しかし、平凡な人間ではあるが、こんな人が町内にいたらみなが助かるとか、こんな人が大勢いたら世の中はもっと良くなるだろう……と思われる人はたくさん落語国にいます。

落語は現世肯定の芸であります。

大きなことは望まない。泣いたり笑ったりしながら、一日一日が無事にすぎて、なんとか子や孫が育って自分はとしよりになって、やがて死ぬんだ……それでいい――というような芸です。

その基盤とするのはごく普通の「常識」、これであると思います。

読んだときには、ちょっと泣きそうでした。

僕らはいつか死ぬ。それでも、日々笑うことや、儚い人生も愛することができる。大真面目にならなくったって、いや、大真面目の中にも不完全さを愛でる気持ちを持つことによって、僕らは現世の自分にやさしくできるのかもしれない。

桂米朝の「落語と私」はそんなことを考えさせてもくれました。真面目くさって書くのも、無粋なことなのでしょうが、僕はとても救われた気がします。

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