大江健三郎 『「自分の木」の下で』と、ズレを持ってくり返される昔ばなし

伊集院光と大江健三郎の過去のラジオ対談から興味が沸き、大江健三郎の著作を初めて読んだ。

 

 

これは、子ども向けに書かれたものであるけれど、これから自分がどう生きて、どう死んでいくかを考えさせられる。衝撃は、やっぱり著者が高熱から生死の淵を彷徨いながら母親と交わした冒頭のエピソード。

――お母さん、僕は死ぬのだろうか?

――私は、あなたが死なないと思います。死なないようにねがっています。

――お医者さんが、この子は死ぬだろう、もうどうすることもできない、といわれた。それが聞こえていた。僕は死ぬのだろうと思う。

母はしばらく黙っていました。それからこういったのです。

――もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。

――・・・・・・けれども、その子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?

――いいえ、同じですよ、と母はいいました。私から生まれて、あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。それから、いまのあなたが知っている言葉を、新しいあなたも話すことになるのだから、ふたりの子供はすっかり同じですよ。

この水脈に流れている愛情は、やさしく暖かいのみではない。恐ろしさも含んだ愛情だ。

 

ノーベル賞作家が子どもに向けて書いた本から、僕はどこか生き方の How to を探していたことに気付いた。このエッセイの中で、いくつか考え方や勉強に関する方法が説明されている部分はある。けれども、読後に残ったものは、著者の自分語りを通して実感できる感覚、子どもと今の自分が連続しているということ、それは過去と未来をくり返し思い出すことによって、より明確化できることなのだろうとというものだ。

僕は、自分の記憶力に自信がない。もう、ちょっと前のことでも簡単に忘れてしまう。けれども、自分の中にたくさん残っている痕跡にふと再会して、正確ではないけれど、幾度もズレながらそれを自分の中や他人に表現することによって、(正確な事実がではなく)「僕」という人となりが明確になっていくのだろう。

懐古主義や長い話しをぼくは嫌いだったけれど、そうやってもし長い話しを聞く機会があるのであれば、その瞬間は僕が相手の「人となり」を際立たせている瞬間(その人自身が際立たせることをアシストしている)に他ならない。そう考えると、長話を聞くのもそんなに悪いことじゃないのかもしれないと思えてくる。また、自分自身の自分語りは嫌いだし、避けて通ってきたけれど、いつかだれかに聞いてもらいたいなと思ったのです。

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