憧れの人から学べるのは、彼になれない絶望と「不確実な状況に飛び込み、自分を変えていく」勇気。

伊集院光とラジオとの2016/8/9のゲストはイッセー尾形だった。

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そこで、何というか職人に憧れて「こうなりたい」と思うこと、そうしてその人の方法論や手順を真似ようとすることと、本人のやってきたことには、大きな隔たりがあるんじゃないか?と「ハッ」とした。そのことについて書き残しておく。

イッセー尾形がやってきたことと、真似たい側が聞きたいことのズレ

リスナーからの質問がくる「どうやって人間観察をしているんですか?」と。イッセー尾形は答える。

よくそのことを聞かれて30年以上答えてるんですけどね。相手が納得した顔は、一度も見たことがない。どうすればいいのかな?

観察って言うと見に行くわけじゃないですか。見に行くわけじゃないんですよ。目に入ってくることはあるわけですよ。

自分のいる場所や、周囲にいる人で、「印象にのこちゃう人」が自分の中にも、他の人にもある。ネタを考えているときに、ストックから出す訳じゃなく、こういうネタをつくろうとするときに「ふと」○○な男が××な状況にいると面白いんじゃないかと、考え出されていくと語っていく。

多分、本当に聴く人が知りたいことと、イッセー尾形がやってることの間に、山より高いへだたりがあるんだなと思った。情報が足りないんじゃない、説明が足りないんじゃない、方向性や出発点自体が全くズレてしまっているんだ。

僕は憧れる。イチロー、天野篤、伊集院光、川上量生・・・。その人が書いた本を読んだり、情熱大陸見たり、その人がやってことをその通りに真似てみようとしたりする。また、昔「その人から言われたようにやれば、その人のようになれる」って思いこんでた時期もあるけれど、それも大きな間違いだったなと今ではわかる。あなたの憧れる人は、他人から言われたことだけをただこなすだけの受動的な人ではなかったはずだ。

イッセー尾形がやっているのはこんなことじゃないか

これ以降は完全に僕の想像です。

イッセー尾形は、ワザワザ面白い人を見つけようと出かけて、事前にこのポイントを観ようと考えて、観察したものをノートにまとめ、ネタを作る時にそのノートから情報を出すという訳じゃない。もうちょっと言語的じゃない、もっと肉体的で、作り出す、生み出すプロセスなんじゃないかな?と思う。

日々の生活の中で、自然にみていたものを、なんとか捻りだしてネタを作っていく。

その結果、その中で「これだ」と思うハッとする爽快感、観客の笑い、に浴びせられる。

その後、自分の自然な生活の中でも、その焦点のあてかた、注意の向け方が変わり、習慣となっていく。

だから「どういう風に(な戦略で)人間観察してるんですか?」じゃなくて、沼からドロドロに掴みだしたものによって、自分という生き物のシステムが変わっていった。そういうモノをつかみ出す生き物になっていった、ということなんだろう。なんていうか、餌が取れる泳ぎ方を続けていくうちに、エラやヒレの形が変わってしまった魚のようなもの。きっとその形になる確証なんて全くなかった、ただただ泳ぎ、食べてきたことによって、その形になってしまったというものなんだろう。

こういう風に、生身の自分で飛び込んで、自分なりの形で正解が分からぬまま作り出し、人前にさらし、どんな結果になるか分からないけれど、生き物としてのシステムを変える。そういうことなんだろう。

そして、それは、ハズレを引く可能性を含んでいる。自分が死ぬ可能性、自分が間違ったものになってしまう可能性、尊敬する人からお前違うぜと言われる可能性。そういうリスクがあるなかで、「でもやるんだよ」ってことがきっと彼を変えていったんだろう。

僕は彼らと同じ世界でどう歩いていくんだろう?

僕は、自分の領域でのエキスパートに憧れた時に、喋り方や仕草を真似てみたり、本を読んでみたり、同じところに行ってみたり、そういうことやってみたりした。確かにそれも1つの方法かもしれない。けれど、僕はその方法では完全に行き詰まってしまった。好きなブロガーのpalさんのツイートを読んだ時も、似た感覚があった。

佐藤寿人を真似ても彼がやっている方法をやったとしても全く同じにやったとしても、きっと、きっと、彼と同じには絶対なれない。それは、とっても残酷なこと。

自由研究をしたり、卒業論文を書いたり、自分から何かを考えてやってみる経験と言うものに昔から疑問を持っていた。既に確認されている効率が良くてすばらしい情報があるのに、なんで1からやらないといけないんだ。けれど、その場面を用意した人たちが考えていたのは。何もないところから何かを作り出す体験を学んで欲しかったんだろう。文字として書くと当たり前のことだが、僕は実感として掴むのに時間がかかりすぎたように思う。

誰かに憧れて何かを始めると言う事は、必ずどこかで「憧れる大好きな人にはなれない」という最初の夢をあきらめなければいけない。悲しい絶望を受け入れなければならないっていう宿命を背負っているのだと思う。けれど、悪いことばかりじゃない。それは、憧れの人の勇気をもらって歩くことで、自分になれるチャンスが残されている。

ぼくができること

大好きな人たち。憧れの対象として、これまで僕の心の中にいてくれて、本当にありがとうございました。僕は、あなたたちをある側面で切り捨てていきます。

大好きです、さようなら。

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