自分の内面と他人との付き合い方

半年前くらいから、自分の人との接し方を改めるチャレンジをしている。今までは、恥だとか焦り、焦燥、緊張、に打ち勝とうと思って、それらと戦っていた。

今は違ったアプローチを始めてみました。

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ボクのニガテ

恥や緊張、焦り。大抵、美人やイケメン、上司、初対面、中途半端な知り合いが対象で、場面はプレゼンテーションや意見を述べる時が多い。そうした時に、これまでは咄嗟にリアクションして、ハッチャケ過ぎちゃったり、苦笑いや気持ち悪い笑い話を返す、過度に明るく振る舞うとか、相手の機嫌を損ねないような発言、おべっかを使うなどなどやっていた。そんで、後ですごく後悔する、思い出しただけで赤面するような感じだった。しかもそれが慣れない。いつまでたっても辛さが軽くはならなかった。

そこには、「自分は大丈夫だと信じたい」という欲求があったように思う。きちんとした人に見られたいだとか、好かれたいだとか、良い印象を与えたいだとか。

そうした欲によって、自分が嫌うようなご機嫌取りと後悔を繰り返してきた。

絶望というクリエイティブな場所

今は、ちょっと違う。星野源の「地獄でなぜ悪い」のように、自分が地獄に落ちているのだと一旦諦めるようにした。「もうキモいと思われてしまった」と、ある意味での絶望を自分にプレゼントするようにしている。

病院の先生やトレーナー、美容師、上司、合コン相手を見つめながら「俺は、もうツマラナイやつだと思われてしまった」「ダメだと思われている」「俺の不安はもうバレてしまった」「オカシイ」と考えるようにしている。そりゃあ、ドキドキするし、緊張するし、不安が人にバレるんじゃないかって恐れは変わらずあって、むしろ、もうバレちゃってるよと、開き直ってる状態に近い。

その状況で選ばれた自分の姿が、本当の姿なのだと思う。平穏な時の振る舞いだけが自分じゃない。焦った時の自分も本当の自分の一部だ。

色々被った毛皮を脱ぎ捨てる機会は少ない。ありのままを見せる、取り繕うという選択肢を捨て去ることで、選べるもう一つの可能性が生まれる。そこには、安易な方法を殺す、安全な自分を殺す必要があるのだ。

それは、言葉のやり取りに限らない。今までだと人に見られそうだなと思うと、ピシッとしたり自分の振る舞いを改めるという感じだったけど、その姿を「見られてしまう」ことにした。自分が振る舞いを変えるのは「見られてしまった」そのあとのタイミング。

相手の動きに左右されていた。例えば、どう思われようとも相槌を打たずに相手の発言をスルーするなど、相手に動かされる割合を減らせれば、人間関係でイニシアチブを取ることにも繋がるかもしれない。相手が何か言った時に100%の確率で頷くのではなく、自分が納得して初めて頷くだとか、自分が選びたいことと行動を一致させていく。

やせ我慢じゃないトレーニング

この歳になってだけれど、新しい自分に出会えそうな感覚をひしひしと感じている。だから今は、苦手な場面や人と話す状況へたくさん入っていきたい。それは、体験学習だ。実習に似ている。前のような、やせ我慢とは違う。自分が大切にしたい相手だとか、魅力的な異性や同性、発表場面に触れることで、新しいことができる実感があふれている。

来年は、どんな所に僕は立っているのだろう?それを確かめるために、チャレンジを続けていきたい。

「私が間違ってた。ごめんなさい」と言って貰いたがる人について

まあ、僕なんですけど。

「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人について – シロクマの屑籠 「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人について - シロクマの屑籠

ロスジェネ心理学―生きづらいこの時代をひも解く

シロクマ先生のエントリを読んで、その時には「あ~あるある」と思っただけだったけれど、自分の中に少し引っかかり続けていたみたい。

「お前は正しい。そんなにお前だけが頑張らなくていいんだよ。」って赦しをくれる人が身近にいたら、自分はけっこう飲みに誘っちゃうかもって思う。こんなにインスタントな救いの言葉って中々ない。こう言われるだけで、ウサが晴れたり、ちょっといい気分になれる。この「お前は正しい」と似た、もう少し違った救いを求めてるな、と最近の生活の中でふと思った。

色々な状況で当てはまると思うんだけれど、それは、争いが起こった時。特に彼女とのケンカだとか家族とのケンカ。僕が相手に言ってもらいたかったのは「ごめん。私が間違ってた。」ってことなのだと思った。こういうドメスティックな状況の中で、ずーっと、ずーっと、相手が自身の間違いを自覚し、悔い改めることを求めていた。

シロクマ先生のエントリにあったように、価値観が多様化した現代で、自分の存在意義、これが自分だ、人生だという実感を得られることなんて、ほとんど無い。

そんな中で、片方に承認欲求が乗ってる天秤のもう一方は、目に見える範囲の中で自分以外が否定されるという差別的で魔女狩り的な欲求が乗っかっているのかもしれない。。

愚痴ばかりの飲み会やお手軽な風俗店のような、グロテスクでもあり刺激的で しょうもない救いに頼り続けなければ我々は生きていけないのか?全員は強くなれないよな、とか。色々頭を駆け巡って、今日の所はこちらが謝ろうとパソコンの光を見ながら、なんとなくな覚悟を決めてみた。

「聞く」ことへ臨む ~「聞く力」 阿川 佐和子~

以前は、人が貴重な時間をお喋りに使う意味がわかりませんでした。そんな時間があれば、もっと身になるコトをすりゃあ良いのにとすら考え、小馬鹿にしていた時すらあります。最近では、コミュニケーションについての考え方が変わってきました。

そんな時に本書を読んで色々考えさせられたので紹介します。

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後手としての聞き手

聞き上手というのは、必ずしもデーブ・スペクターさんのようにビシバシ切り込んでいくことだけではないのかもしれない。相手が「この人に語りたい」と思うような聞き手になればいいのではないか。こんなに自分の話を面白そうに聞いてくれるなら、もっと話しちゃおうかな。あの話もしちゃおうかな。そういう聞き手になろう。

私が最終的に目指すところはどこかと問われれば、とりあえずゲストに「アンタの顔を見ていたら、いつのまにか、喋っちゃったよ。あー、楽しかった」と嬉しそうに帰っていただくことです。

最近では、富みに相手を操作しようとか自分の意図を通そうと構えることが少なくなりました。何か交渉するのは、あくまで次のステップ、関係を作った後のステップだと考えるようになったのです。それに、相手が自分の想定した通りの人で、予想していた通りの意図を持っているなんて、会ってみるまでわからないものです。私の仕事でも、会ったその日に決定をしなければいけないということはそんなに多くはなく、まず自分と相手の関係を作っていきます。その場では、率直でいたい、素直に楽しく時間を過ごしたいと思います。結果的に、それが仕事に繋がっていきます(し、つながらない時もあります)。

人となりは細部に宿る

そういう意味では、最近は、相手と自分が似ていないこと、違いがあること、間違えてしまうこともとても重要だと思うようになってきました。以前は、相手の意に沿わないことを口にしたり、誤解を持っていることを必要以上に恐れていました。

相手を見るということは、すなわち相手の心の中は今、どんな状態になっているのかと慮ることでもあります。

自分と違うからこそ、自分のスケールだけで判断してはいけない。でも、嬉しかったり悲しかったり苦しかったりする感情に、違う体験ながら、どこかで共鳴する場所を見つけることはできるはずです。違う思考や行動を経験した他人の気持ちの一部だけでも、自分の何かの経験を重ね合わせることができたとき、相手に対するより深い理解と興味が生まれるのだと思います。

人となりは、細部に宿るのだと思います。特に、わかり合いにくいけど、琴線に触れるような、ギリギリのやり取りで、分かち合えた一瞬というのは、話している関係を近づけてくれます。

些細なことが重要な役割を果たすことが多くあります。

わかりあえる貴重な一点を探して

話すことなど何もないと思いつつ、聞き手と一緒に・・・ごそごそ漁っているうち、「あれ、こんなもんがあったよ。忘れてたなあ」という宝物を発見することがあります。それは、「ごそごそ」をやらなければ、見つけられなかったものなのです。ときとして、「なんでここに、こんなものが入っているんだろう」と驚くようなものを発見することもあります。

こういう発見はとっても貴重です。完全に重なることなどできない人間同士が分かり合えたと思えるのは、こういう瞬間であるのかもしれません。

脳みそ捜索旅行に同行し、添いつつ離れつつ、さりげなく手助けをすればいい。

自分を振り返ってもこの話は、あいつにしか分からないよなと思える相手と話す時間はすぐに過ぎて行きます。そこにはお互い打算や相手を操作しようとする意図はない。ただ一緒に怒ったり、辛いよなと言い合える時間というのは貴重なものです。

昔あれほど馬鹿にしていたお喋りに、今は助けられることすらあります。こうやって自分の間違いを教えられていくというのも歳を重ねて行くことの良い所だなと思います。

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責められたときもきちんと話のできる人でありたい

親しい人とうまく話ができなかった。こういう所が自分のうまくいかない所なんだ。

ある程度距離のある人と良好な関係を作るのは問題ない(と、僕は思ってるけど)。自分と距離が近づいた、本当に今世界で片手の指くらいで足りる人数の人と決定的な場面でうまく話ができなかった経験がある。今週も、そんな日だった。

自分を覗いてみるよい機会だと思う。


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攻撃されることに弱い自分

大人になってくると、攻撃されることは減ってくる、波風立てられることを嫌う人ばかりでってな感じ。でも、重要な相手となってくると色々口を出したくなって来たり、折り合いをつけるために重要な話をしなくいてはいけない局面ってのはかならずやってくる。

今回、そんな場面で自分の考えや立場や相手に対して思っていることをうまく言えなかった。もう三十路越えをしたのに、恥ずかしい。。

つまるところ、「自分を攻撃されてる」とか「責められてる」って感じた時に、じっくり話すことが僕は苦手だ。相手の言い分を聞いて、特に痛いところ疲れてるときなんてのは、「うぐぐぐぐぅ・・・・・・」となって、「つまり○○なんだよ」とか「~としようとしただけ」「としか俺は考えていないよ」なんて論理の毛皮を被りたい匂いのプンプンする、けっこうな『極論』をぶつけて話しを切り上げようとしてしまうってのが自分のパターン。

完全に感情が動揺してしまってるのにね。。

仕事であれば、例え責められる状況でも「これは職業人の自分が責められているのであって、帰って肉くって、風呂入って、ブログでも書こう」なんて思いつつ、それでもじっくり相手の話しを聞いて、白黒簡単につけられないことについて「あーでもない、こーでもない」と話しを続けられるんだけれど。立場とか役職だとか、そういう盾がない状態の自分を剣で突かれると、まぁ、皮膚をやぶって肉に届いちゃって、焦って剣を振り回しちゃいます。鎧を着て、戦法道理に戦いを組み立てる状況じゃないんです、プライベートは僕にとって。

その対処

ただ責められることや、攻撃されることへの対処法は若い時よりは、大分楽にできるようになってきた。すこし間を開けたり、一人になったり、外出したり、シャワーを浴びたりすれば冷静になることはできる。感情的になった時に、相手に言葉を不用意に返すんじゃなくて、冷静になってから真意を伝えると大抵過剰に攻撃し合わずに済む。単にこちらが謝るだけの時は、それで済む。

問題は、抜き差しならぬ状況だったり、あれ!?もうガップリ四つに組んじゃってるじゃん?とか、どんなに責められようとも今、その状態でも話しをしなきゃいけないシチュエーションに立たされたとき。

そんな時に問題を現実よりも過剰にシンプルに捉えようとするし、一面的な判断で突っ走りたい気持ちに駆られる。これは「人を動かす」でいう所の、「攻撃されたのは論理ではなく感情」的な状態に自分が立たされているってことだろう。そりゃ、それだけ距離が詰まった人のことだから、他人に興味のない自分でも考えていることはたくさんあって、それを話さなきゃいけないとも思っている。けれど、一緒にバカ話しして心地よい相手と議論するなんて面倒だし、避けてきたような所もあって、今回、そのツケを払う羽目になっているんだろう。

で、文句ばかり言っていてもしょうがないので、いくつか解決策を考えてみようと思う。

1.文章で考えをまとめて読んでもらう

 いきなりその場で話すこととは離れてしまうけれど、論理を問題にするなら、それを表現するプロセスじゃなくて、ロジックそれ自体をまずまな板の上にのせるって方法もありなんだろう。そこと感情とは別次元で話せればもちっと冷静になれるかもしれない。

2.普段から、わずらわしいことも話すようにする

 それで相手との距離ができてしまって、関係が離れていくならそれまでの関係だったのかもしれない。普段議論をさけていて、究極的な時にうまくそれをやろうと思っても無ですよね。

3.言われたくないことも全部自分で言ってみる

 なんとなく本能的にこうすることが自分が一番うまくいくような気が今してます。「俺が全部を人のせいにして逃げているように見えるってことはわかるよ」とか、「間接的にあなたを責めるような状況を作って、結果として謝らせようとしてると考えてる」とか。まあ、枕詞として「ちょっと責められてると思うと、俺はついつい極論ぽいことを言ってしまって、話しを終わらせちゃおうとするところがあるから、いったん、こんなことで俺は責められてるんじゃないかって疑心暗鬼を一度確認していいですか?そのあとで、しっかり話したいと思うから、先に僕の感情的な部分を確認してもいいですか?」みたいな・・・

 うーん、火に油を注ぎそうな感じもするなあ。

4.飲みに行って酒の席として本音を言うようにする

学生のころと違って飲みに行くこと少なくなったし、3番を考えてみて、シラフじゃ自信ないですとおもったから、出してみた案。問題はあんまりアルコール自体が好きじゃないこと(飲み会は好きだけど)と、遺伝子検査からいうとアルコール関連リスクの高い遺伝子を持ってることかな・・・

まあ、お酒の席で言われてもって感じでより信頼関係が崩れるリスクもあるんだろうけど・・・

どれも試した結果、自分に合っているものを選び出していくしかないんだろうけど、大人として、もう一歩、深みを持っていきたい、ブレークスルーしたいって気持ちがあるんです。

人となりは細部に宿る

人を理解するとはどういうことだろうか?思春期やら青年期にウダウダ考えていたことを、思い出すきっかけがあった。それは、スタジオジブリプロデューサー鈴木敏夫の仕事道楽を読んだこと。

仕事道楽―スタジオジブリの現場 (岩波新書)

宮崎駿の映画ストーリーの作り方がとても印象的だった。

映画を作るにあたって宮崎駿の発想はまず、極端な細部からはじまります。どんな洋服を着ているか?どんな髪型か?何を食べているか?どんな家に住んでいるのか?そこからイメージが膨らんでいく。

ジブリ作品の中で動くキャラクター達は、とても人間的だと感じます。それは、完ぺきそうなサツキが泣いたり、ソフィーがすぐに殻に篭ってしまったり、何だか人間って時にそうだよね、って振りきれなさや雑じりっけや葛藤する様を感じます。

それは、作られた人工的な人格という感じが少ない。そこについては、本の中で高畑勲の語るエピソードがとても印象的だ。

彼の人物の持つおそるべき現実感は、対象の冷静な観察によって生まれるのではない。たとえ彼の鋭い観察結果が織り込まれるとしても、彼がその人物に乗り移り、融合合体する際の高揚したエロスの火花によって理想が血肉化されるのだ。
彼はだから、ドラマの役割として設定した人物に次々と思い入れしていき、その人物なりの魅力や悩みや言い分を与え、悪玉さえいつのまにか悪玉でなくしてしまいがちである。複雑な厚みのある、あるいは面白く人間味のある人物像を想像するということでは、優れた作家に共通する傾向かもしれないが、宮さんの場合、自分が生み出し、長い制作期間付き合っていかねばならない人物を、思い入れなしに突き放して描くのは耐えられないということもあるのではなかろうか。

こういうことが人に入り込んでいく、歩みこんでいくということなんだろうと思う。それは、その人の全体像を把握するだとか、こういう性格だ、こういう人物だと大枠を理解することの対極にある。

一瞬の、今、彼や彼女の中でチリチリと確かに動いた部分。そういったものが、異なった個体同士が重なるための引っかかりになるのだろうと思う。主義、思想といった、ことばで構成されるシンボリックな表象より、その仕草、その服、その表情といった、そこで生まれる、まさに今のその人が、その人なのだろう。分かるって体験は、それは相手が持つものがドライであるときでさえ、その肉体的な実感というものが存在している時にピッタリとくるのだろう。心に穴が空いたようなという、抜け落ちた感覚さえ自分を重ね、言葉ではなくて、自分の身が歪む体験として理解しようとして近づける道があるんじゃないだろうか?

以前は、こういう生々しいことが嫌いだったし、自分のテリトリーに他者が入ってくることへのアレルギーはとても強かった。けれども今は、淡々とした静かな生活の中で時折おとずれる、人と重なる瞬間を貴重なものだと感じるのです。