死が僕らの前にふたたび現れる

これは批判的な話しでも、悲しい話でもなくて。

おそらくネットで情報発信をすることが一般的な世代は、控えめに見ても上が50代前後じゃないかな?と思う。それよりも上の世代になってしまうと、情報発信する人も少なくはないだろうが、全体数から見ると割合は低い。

今の50代未満の生活というのは、だいぶウェブの中に出揃ってきていて、僕らも容易に眺めることができる。生活が可視化されてきたといっても良いだろう。

これから何が起こるか?

それは、ハイテクな話しではなくて情報発信者が老い、衰え、身体を病み、呆けてしまったり、何も分からなくなってしまったりして、介護されたりする様、そして死んでいく様が一人称で可視化される。

僕らの前に死が再び現れる

日本も経済大国になり、核家族化に伴って老いた家族と一緒に生活することが減ることにより、僕らは死を目にする機会が激減した。

ネットを歩き、死をポケットに入れて – 凹レンズ 〜まとまりのない日記〜 ネットを歩き、死をポケットに入れて - 凹レンズ 〜まとまりのない日記〜

これまでも、事故死や病死、第三者視点での介護、認知症に関するレポートは数多く存在してきたし、目にする機会もあった。けれど、これからは全くことなった時代に入る。

主観として「自分が自分であることが失われる体験が綴られていく」というのは、壮絶なものだ。それは恐らく文筆家によって書籍としてまとめられているだろう、有名人によって記者会見として語られていただろう。しかし、ウェブの中で一般的に発信されていくというプロセスを経ると、内容が同じであってもそれが人生に与えるインパクトは異なってくる。文筆家や有名人はどこか僕らとの間に隔たりを持っている、しかし、これから僕らが直面しなければならないのは、“まったく自分と同じ人間”による死へのプロセスだ。

ソーシャルメディアはこれからも情報拡散能力を高めていくだろう。現在進行形で、目の前で、自分とWebという糸で繋がった先で人が衰えて死んでいく。編集された、外に出せる形になったものでなく、死が僕らの生活に再び足を踏み入れてくる。

これからは必要になるのは、科学か、信仰心か、はたまた政治だろうか?果たして僕らにその覚悟はできているのだろうか?

落語の世界観 ―人間はまぬけで美しい―

人間はまぬけで美しい

これは、落語家経験を持つ伊集院光が自分のやりたいお笑いについてラジオで語った言葉です(伊集院光の人間観 – 凹レンズ 〜まとまりのない日記〜 伊集院光の人間観 - 凹レンズ 〜まとまりのない日記〜)。桂米朝が2015年3月19日に亡くなり、彼の著書である「落語と私」を読んでみました。

私は落語に触れる機会は少ないけれど、伊集院光のラジオが好きで、その世界観にとても興味をもっていたし、ツイッターなどでこの本が絶賛されていました。


この本は子どもへ向けて書かれており、表現が非常にわかりやすく、そして落語家独特のことなのか自然と興味が本の中に集中していき、とっても楽しく読むことができました。そこで、本エントリでは、桂米朝の語る落語の世界観について紹介します。

桂米朝の語る落語の世界

落語家はメーキャップもコスチューム(衣装)もありません。素顔に高座着、扇子と手ぬぐい、舞台の背景も小道具もありません。しゃべるだけの芸です。したがって雰囲気というものが非常に大事なのです。

また、映画や歌舞伎、紙芝居などと比較して、落語には視覚的媒体が極めて少ないことが説明されます。だからこそ、物の置き方、視線の向け方、部屋の大きさを想定した声のかけ方、振り返り方など落語家の機微が重要な役割を果たしていきます。意識的・無意識的にでも立体感を持った世界を想定していることが重要になってきます。もし、その点が不十分であると違和感が生じます。

この違和感というやつが落語の場合、非常に困るものなのです。背景も衣装もメーキャップも小道具もない落語ですから、ただおしゃべりによって、何のこだわりもなく自然にはなしの世界にはいって来てもらわなければならないのに、ちょっとした気持ちのひっかかり、抵抗感、これがあると困りますね。

そして、落語家の声、調子、視線、ふるまいによって、リアリティを伴って動き出す世界をありありと構成していきます。しかし、それが「凄い」という所で終わらないのが落語らしさです。落語の最後には必ずサゲ(落ちのこと)があります。

サゲ……というものは一種のぶちこわし作業なのです。さまざまのテクニックをつかって本当らしくしゃべり、サゲでどんでん返しをくらわせて「これは嘘ですよ、おどけ話ですよ」という形をとるのが落語なのです。

落語は、物語の世界に遊ばせ、笑わせたりハラハラさせたりしていたお客をサゲによって一瞬に現実に引き戻す。そしてだました方が快哉を叫べば、だまされた方も「してやられたな、あっはっは」……と笑っておしまいになる、いわば知的なお遊びです。

粋とは、こういうことを言うんだろうなと思いました。桂米朝の解説は解説であるにもかかわらず、かくあるべきという頭でっかちでなく、落語の雰囲気を味わいたくなる丁寧な語りでした。いつか生で落語を見てみたい。

落語 天狗裁き 桂米朝さん 落語 天狗裁き 桂米朝さん

落語国の人々と人生と死と

そして、最後に「やっぱりこの本を読んでよかった」という文章が待っていました。

好人物で働き者で、小心で律儀で、そのくせ、適当に欲も深くて、酒が好きで遊ぶことも好きで、世間のつきあいがよくて……、おっちょこちょいで、野次馬根性があって、人の噂ばなしが好きで、適当に正義漢で感激やで世話好きで、子どもはたいていこましゃくれていて、おかみさんはみな、世話女房でおしゃべりが好きで、苦労性でそのくせ楽天家で、ぬけめがないかと思うと、損ばかりしていたり……。

偉大な人物はいないかもしれませんが、しかし、平凡な人間ではあるが、こんな人が町内にいたらみなが助かるとか、こんな人が大勢いたら世の中はもっと良くなるだろう……と思われる人はたくさん落語国にいます。

落語は現世肯定の芸であります。

大きなことは望まない。泣いたり笑ったりしながら、一日一日が無事にすぎて、なんとか子や孫が育って自分はとしよりになって、やがて死ぬんだ……それでいい――というような芸です。

その基盤とするのはごく普通の「常識」、これであると思います。

読んだときには、ちょっと泣きそうでした。

僕らはいつか死ぬ。それでも、日々笑うことや、儚い人生も愛することができる。大真面目にならなくったって、いや、大真面目の中にも不完全さを愛でる気持ちを持つことによって、僕らは現世の自分にやさしくできるのかもしれない。

桂米朝の「落語と私」はそんなことを考えさせてもくれました。真面目くさって書くのも、無粋なことなのでしょうが、僕はとても救われた気がします。

別れと命を燃やすこと

昨日は職場の送別会だった。

別れは寂しい。日々の生活の中から、その人の存在が消えて、これまで交わしていた言葉ややりとりが無くなってしまうのも悲しい。

送別会で色々な挨拶をききながら、「僕はどんな風に出会ったり別れたりしていきたいんだろう?」と考えていた。

ひとりが「出会った人とのことは、きっと死ぬまで忘れないでしょう。新しい場所でもがんばってください」と挨拶をした。

それを聞いて「確かにそうだな」と腑に落ちた。

思い出すとか、がんばって忘れないとかじゃないんだよな。意識できるように、言葉で言いあらわせるように“努力する”必要なんてないんだ。

もう刻まれてしまっている。死ぬまで残ってしまうのだ。その人と過ごした時間は。

もしその人の一部を大切にしたいなら、置いていかれる僕は自分の命をしっかりと燃やすしかない。

やはりきらめく世界を思い出す。

「とても深い海の底に連れもどされるのが怖いの」

『大丈夫。君は溶け合って僕になる。

 どこまででも近くなってただその命を燃やすんだよ。』

             (メレンゲ「きらめく世界」)

その人の影響は、僕が生きている時間、確かにこの世界に存在するのだから。

生きている僕から見れば、「死の恐怖」は数ある悩みのひとつに過ぎない

死後の生について決定的な証拠はまったくない。だが、それを否定するいかなる種類の証拠もない。もうすぐきみにわかることだ。とすれば、なぜそのことにいらだつんだ?

愛に時間を 1 ロバート・A・ハインライン

この数日、死や死後の世界、自分の意識の消失とか、そういったことばかり考えていた。生命と死の謎を解決しないことには、自分の生活を送ることができないような切迫感に駆り立てられてきた。

結局のところ、その蓋を開けた先には「恐怖」しかなかった。

ボクは最早、死後も生命や意識、魂が残ることを信じて、自分を安心させることはできない。

ここ最近のボクときたら、何をするにも、自分がいつか死んでしまうという「理不尽な決まり」への憤りを感じて、集中することができなかった。自分に何か命に関わる病気が潜んでいるんじゃないかと、体の違和感を虱潰しに探したりもした。

ボクは、死んだ後の自分が可哀想でしょうがなかった。不憫で成らなかった。そうやって頭の中でのたうち回った結果、一つの重要なポイントに辿りついた。

この数日、死について考えるとき、ボクは死後の視点から人の生命を見ていたのだ。けれども、ボクは、生きている自分の視点から死を見つめるべきだったのだ。

これは、岸本英夫の『死を見つめる心』に書いてあったことだ。

人間には無ということは、考えられないのだということである。人間が実際に経験して知っているのは、自分が生きて生活しているということだけである。人間の意識経験がまったくなくなってしまった状態というものは、たとえ概念的には考えても、実感としては考えられないことである。その考えられないことを人間は、死にむすびつけて、無理に考えようとする。そこで、恐ろしいこととなるのではないか。・・・この点に、まず気がついてみると、生きている人間である自分が、死を考える場合には、このように死と、このわからないものとを結びつけるような角度から考えてはいけないということであった。

私は、その絶望的な暗闇を、必死な気持ちで凝視しつづけた。そうしているうちに、私は、一つのことに気がつき始めた。それは、死というものは、実態ではないということである。死を実態と考えるのは人間の錯覚である。死というものは、そのものが実態ではなくて、実態である生命がないところであるというだけのことである。・・・死の暗闇が実態でないということは、理解は、何でもないようであるが、実は私には大発見であった。これを裏返していえば、人間に実際に与えられているものは、現実の生命だけだということである。・・・死というのは別の実態であって、これが生命におきかわるのではない。ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことである。

死を見つめる心 (講談社文庫)

結局の所、死んだ後の自分をどうしたら良いか、という問いの立て方自体が間違っていた。岸本英夫の言う「現実の生命」を大切にするというのは、「死」を眺めるのなら、生きている自分の側からしか見ることができないということだと思う。

確かに、死んだ後に自分がどうなってしまうのかということは、気になる。怖い。絶えられない。けれども、そちら側から生命を見ることは不可能だ。死んだことなどないのだから。何も、確かなものがない所で論理を組み立てることはできない。そこには、無理が生じる。

そして、少なくとも僕らは確かなものを持っている。それは、これまで生きてきたこの世界についてのものだ。

死について考える時、何か真理や悟りのような物を求めてしまうんだけれど、僕らが掴みうる答えがもしあるのなら、それはきっと俗っぽいものなのだろう。そうして、その答えを得られる保証もなければ、得る必要も無いかもしれない。怖いけれど。

皆、仕事や人間関係、家族について悩みを持っている。この今の生活という視点に立てば、死の恐怖も結果的にそういった数ある悩みの一つに過ぎない。

そうして、やるべきは答えが得られなくても、自分が目指すものや大切にするものに真摯に向き合っていくことなのだと思う。恐怖を抱えたまま、人生を走り抜けるってことが、今の時点でボクがひねりだせる答えなのだろう。さて、明日もしっかり命をつかって生きてみよう。

「死」をどう受けいれたら良いか分からなくても生きていける

ここ数日、「死んでしまったら自分はどうなってしまうんだろう」という考えにずっと囚われていた。

理由は分かっている。

「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」を読んだから。

母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。 (BUNCH COMICS)

「死んだあと、自分はどうなってしまうんだろう」「消えて取り戻すことはできない」「生き返ることはできない」「全てが終わってしまう」「自分のいないまま世界が続いていってしまう」などなど、考え出したらとまらない。しかも、治りの悪い口内炎のことを、「これは舌癌の始まりなんじゃないのか」と疑ったり、そう思うと、体中の感覚が死の警告に見えてしまう。

「これ以上考えると危険だ」と感覚が教えてくる。

一度このループにはまると中々抜け出すことは出来ない。死が空を覆いつくす雲のように人生に暗い影を落とす。

きっと答えが欲しいのだ。この死の恐怖を解決することのできる答えを。それは、悟りとか達観とか、そういった類のものなのだろう。

ただ、まぁ、いろいろ家族のこととか仕事仲間のこととかに思いをめぐらせると、以前よりも少しは落ち着いて怯えることが出来ているように思う。

今の時点で天涯孤独だったら、たぶんより深い闇の淵に立つことになっていただろう。結果、みんな死について悩み、解決しようと試み、そして、消えていったんだ。

ボクが求めているのは、結局のところ、不老不死のような幻想なんだろう。

今少しトンネルを抜けたように思うのは、「死んだらどうなるか」「どうやったら死を受け入れられるか」という答えが分からなくても、生きていくことはできる、という点だ。

「永遠に死を受け入れられなかったとしたら、どう生きていきたい?」と聞かれれば、基本的には今いる場所で一緒にいる人を大切にして、ムダかもしれないけれど自分の仕事をしっかりすることだと答えるだろう。

「今舌癌に侵されていて、あと1年しか生きられないとして、どう生きていきたい?」と聞かれても、別に享楽主義にはならないだろうし、別れの作業を出来れば良いなと思う。

ある意味、「仕方がない」となれば、ある種の苦悩はなくなるんだろう。逆に言えば、苦悩しているのは「死ぬ」という運命に抗っていることなんだとも思う。

死を受け入れられないまま、自分が生きたいように生きていくということは、両立し得る。今日はこんなところで、考えるのをやめようと思う。