ボクは、いつか母を失う。死によって。

宮川さとし『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』を読んだ。


母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。 (BUNCH COMICS)

この本を読んで「泣ける」とか「感動する」とか「良い本だ」とか言いたい訳ではないんだ。

あなたのことを教えてくれてありがとう。その時の気持ちを分けてくれてありがとう。そう思う。

ボクは死が怖くてたまらない。自分の命が突然終わって、この世界から切り離され、何も考えることができないし、怖いとすら感じることも出来なくなってしまう。無。今の意識が消えて、ボクという感覚が途切れてしまうことが怖いのだ。

そしてそれは避けることのできるリスクではなくて、決まっているのだ。必ずボクは死ぬと決まっている。

それをどうしても受け容れられない。そんな理不尽なことがあって良い訳がないじゃないか!と感情が拒絶する。いくら頭で理解しても、体は死を拒絶し続ける。そして、永遠に死なないような感覚をボクへもたらしてくれる。自分だけは、永遠に死なないような。

そうして、ボクが深く付き合った人、肉親、家族が死んでしまうことは、ボクの一部も一緒に死んでしまうように感じるのだ。ボクの命も、他の人と同じように無慈悲にいつか切り離されるということへの、現実味を突きつけてくるような感覚。

その臆病さを、ボクは他人と共有することができない。その恐れを分かち合うことが出来ないのだ。30代を過ぎた今、それはなおさらなのかもしれないけれど、「ボクは死ぬのが怖いんだ」「どうしても自分がいつか死んでしまうことが許せない」と友人に話す機会なんて無い。家族に打ち明けることも憚られる。なぜなら、それが家族の人生にどこか影を落としてしまうんではないかと不安を覚えるからだ。

「孤独」や「苦しみ」は共有できても、「死の恐怖」はそれこそ死にごとがあったときに、お坊さんの説教を聴く時くらいしか話題に上らない。

この分かち合えなさが、死の苦痛の一部を占めている。

そして、本書はそういった“分かち合えない死”についての話し相手になってくれる。この本の中にでてくる感じ方や考え方が正しいということではない。ボクは死についてこう考えるけど、キミはそう思ったんだという、打ち明け話の相手になってくれる。

「そう感じても良いのだ」というのは、何かに向き合うときの大きな赦しだと思う。

ボクも母を愛している。いつか亡くなってしまうということが、とてつもなく寂しい。死なないで欲しい。ずっと元気でいて欲しい。みんなで永遠に生きていたいと願ってしまう。愛している。愛しているのだ。

本番直前の感覚を日々の生活のなかへ持ちこめないかという幻想

暗い部屋、疲れた頭、風呂上りの体。夜10時30分。ライフワークと心に決めたプロジェクトの検討会は、大抵火曜日だ。

幻想ギネコクラシー 1

毎回、この時の気持ちを持ち続けたいと思う。プレゼン前ギリギリのヒリヒリとするけれど、猛スピードで進んでいる感覚。アドレナリンがでて、「この感じがズットあればもっと良い仕事ができる」というこの感覚。

でも、それもきっと幻想なんだ。

そういう「やる気」という魔法の鍵が欲しいんだ。それさえ持っていればどんな扉も開けられる魔法の鍵を手に入れて、悩みなく頑張れる人になりたいんだ。

けれど、そんな「やる気」を持った人間に「成る」ことなど永遠にない。

どんなに自分は強いと思い描いても、目の前のどうなるかわからない選択肢は怖いし、先延ばしにしたい欲求には苛まれ続ける。僕らがやらやくちゃいけないのは、切迫した状況の「ハイ」な状態を手に入れることではなくて、不快感やガッカリするかもしれないリスク、疲れてダメになっちゃいそうな恐れをもったまま、勇気を振り絞り続けることだろう。

不安はなくならないし、人生は自分の思ったとおりにならず、期待はずれに終わることもある。

けれど。それでも生きてゆける。

僕にとっての旅は、日常の中にあった

なぜ冒険家は一時的なものだけに身体を張り、永遠に対して挑まない、賭けないのだろう。ぼくの「危険に賭ける」というのは、日常の、まったく瞬間瞬間の生き方なんだ。

岡本太郎/自分の中に毒を持て (青春文庫)

日々の生活に命を燃やすにはどうすればよいだろう?

岡本太郎の自分の中に毒を持てを読んでから、それは、自分には1つの大きなテーマになっている。繰り返しの毎日にどうやって“旅”や“危険”を同居させれば良いのか、ずっと分からなかった。

旅をする意味とはなんだろう?

自分の知らない場所へ移動し、生きていくために必要なことをする。新しい場所、新しい人のいる環境では、行うことの多くが「初体験」であり、日常生活で慣れて分かりきっている習慣とは異なっている。こういった、それまでにやらなかったことを実行し、新しい刺激に触れ、「自分が変わっていける」と感じることが旅の醍醐味だと思う。

最近、ひとつの気づきとなったのは「自分の最も大切なこと」に手を触れ続けることではないか?ということ。

自分が一番やりたいこと、「時間があったらこれがしたい」「こういう立場になったらあれをやってみたい」とこれまでは言い訳ばかりしていたことを叶えていくことだ。

僕たちは慣れ親しんだ世界に安住してしまう。変化を恐れ、固定化された自分を保ち、世界を変えない。「どうなるかわからないこと」が怖いのだ。別に特定の失敗を恐れているわけじゃない、失敗することによって自分の才能の無さが突きつけられてしまうのではないか?自分が何かよくわからないけれど、危うい状態、立場になってしまうんじゃないか?という、不確実さ、曖昧な未来、どうなるか分からなさに怖じ気づいてしまうのだ。そうして、自分の歩みたい道から目を背け、今いる場所をぐるぐるまわり、「今はまだ出発するにはベストな時ではないんだ」と言い訳を語り続ける。誰かに弁解しているんじゃない、「しょうがないんだ」と自分に言い聞かせているんだ。

そんな風に、誰にでも実現したい未来はあって、それは重要であるからこそ、足が踏み入れられないまま、フロンティアとして残されている。まるで夜の間に降った手付かずのままの雪の平原のようだ。自分のライフワークに取り組んだなら、誰もが結果として開拓者となる。

必要なことは、自分の夢に飛び込む一歩だ。ただ、飛び込めばいい。愛される覚悟をすればいい。絶望や落胆が裏面に刻まれているコインを手にとってみるだけで、僕らは旅にでることができる。場所は変わらないけれど、いつもの世界が姿を変える。もう昨日までとは歩く意味が変わってしまう。旅人は祖国に戻れば旅を終えるだろう。けれど、自分のライフワークに取り組み始めたとき、僕らの生活はこれから永遠に旅路になる。不確実で、経験のしたことのない、幾千の経験をもたらしてくれるだろう。

僕らの心臓は強く鼓動を打つ。それは価値観のコアに近づいている証拠でもあるんだ。いつもと同じ部屋の中で、僕の命は音を立てて燃え始める。

とけ合い境界線が消えさる愛しかた

「とても暗い海の底に引き戻されるのが怖いの・・・」

大丈夫

君は 溶け合って 僕になる

どこまでも近くなって ただその命を燃やすんだよ

きらめく世界


きらめく世界

TVで毎年放送されるチャリティー番組が流れていた。その内容は、友人の多くを災害によって失った学生が、今は亡き友人とのことを綴った合唱曲を歌うというものだった。

確かに、そういった形で亡くなった人や離ればなれになった人を、「大切にする」という方法がある。決して、その人のことを忘れない。思い出を鮮明なまま保ち続ける。

ただ、僕にとっては、こういった方法はプレッシャーの強いものだとも感じてしまう。それが、素晴らしいと思う一方で、彼らが亡き友人のことを必死に、何度も、毎日思い出そうとすること、思い出は薄れることはないと確認し続けることをどこか重々しく感じてしまう。

人間は、まぬけで美しい。

できることなら、悲惨で過酷な状況に遭遇したことのある人も、まぬけであって欲しいと僕は思う。弱さを見せられない状況では、どこか一生懸命で正しい側面ばかりで毎日を生き抜こうとしてしまう。日々、オナラは作られ、チン毛だって抜けるけれど。

きっと毎日がんばって想いだそうとしなくたって、亡くなった友人は、君を恨まない。不謹慎な発言かもしれないけれど、君が一生懸命に彼を思い出そうとしなくたっていいし、忘れてしまう日があったって構わない。

夕暮れは 赤と黄色が待ち伏せてて 綺麗だった

遠目で見ても 分かるくらいのグラデーション

こんなふうに 君と僕も 混ざり合えたらな いいのに

きっと日常で親交のあった人との時間は、体の中に刻まれる。それは、呪いのように、愛のように、僕らの日々の行動の中に残ってしまう。友人に喋ったように人に語りかけ、友人のしぐさが自分の中に残痕し、それをまた別の人間に表していく。

もうどこからが彼の影響で、どこからが自分独自の行動かなんて分からなくなるくらい、日々を重ねる中でそれらは混ざり合って、あなたの一部になってしまっている。そしてまた、これからの時間で、あなたの中に馴染んでいってしまうだろう。

もう境界線なんてないんだよ。あなたが、あなたの命を燃やし続けるだけで、彼はある意味で生き続ける。そしてそれは、また、他者へ繋がり続け、世界をゆったりと覆っていく。

それでも、いつかは全てが終わって。二人で通学路を通った日々が、地下に忘れられた化石のように、息をひそめていくんだろう。

意味なんてないのかもしれない。でも、きっとそれだけでもいいんだ。

「どうなるかわからない」ことへの怯え

人は特定の未来に悩むのではない、「どうなるかわからない」ことへ怯えるのだ

近ごろ、自分の中にはある種の怯えがあって、それが仕事や人間関係の足枷になっているという考えに至りました。今日は、その怯えについて書き残しておきます。

不安の中に手を突っ込んで

どうなるかわからないこと

執筆や大きなプロジェクトなど自分が大切にしていることに対するプレッシャーについて何度かこのブログでも書いてきました。今迄は、自分にとって重要度が高い物や、大切なモノだからこそ、ストレスに感じてしまうとばかり考えていましたが、そうでも無い側面があることに気づきました。

僕にとってそれらの仕事は“新しいこと”だということです。ルーチンでもなく、前やったことでもなく、新しい物を作ったり、計画を練ったり、文章をひねり出したり、どういうリアクションをされるかが予測もつかない状況で人にそれをプレゼンしたり、・・・そういった「どうなるかわからない」という状況そのものを恐れているのではないか?とふと気付いたのです。

以前、「死を見つめる心」の「死の恐怖というものが、人間の意識経験がまったくなくなってしまった状態というものは、たとえ概念的には考えても、実感としては考えられないことである」ということに近いように思います。人間は体験したことしか実感できない、未来のことを実感できないのに、僕は未来の実感が欲しかったのかも知れない。

岸本英夫『死を見つめる心』がスゴイ – 凹レンズ 〜まとまりのない日記〜 岸本英夫『死を見つめる心』がスゴイ - 凹レンズ 〜まとまりのない日記〜

「どうなるかわからない」ものが「どうなっていくか」を捉えようとして、悩んだり、先延ばしにしたり、準備ができるまで待ったりするのは、ある主の不毛さを含んでいます。釣りに行く前に、釣れるかどうかが確実に分かってから、でかけることはできません。スポーツの結果を知ってから観戦をすることなどできないのです。それでも、僕はそういう「決して手に入らない安心」が欲しくて、動き出せない、そんなことを何度も何度も繰り返してきました。恐らく僕の待っているバスは永遠に来ることはない。

何ができるか

このことについて自分が取りくんでいける方法には、どんなものがあるのだろうか?と、ここ2~3日、想いをめぐらせてみました。

いきついたのは、「先のことは分からない」ということについてリアリティを持って実感するということです。「やってみなくちゃわからない」ということは、頭では分かります。それでも、ついつい先延ばしにしたり、取りくむ手が止まるというのは、頭では分かっていても、体や心の面ではまだまだ納得できていない、腑に落ちていないのだと思います。

そして、そういった実感を持つためには、くり返しくり返し先の分からない物に触れつづけて、それを自分なりに解決していくことしかないのだろうと思います。私は、自分の予想と違うことが起こることや、どんなリアクションをするのか予測できない人と話したり、スポーツをみたりするのがあまり得意ではないのだと思います。けれど、目の前にある「どうにかわからないもの」にそれを仕方のないこととしたまま自分から歩み寄って、触れて、その感触を確かめ、「完璧ではないけれど自分で作るとこんな形になるんだ」という結果を甘受していくことなのでしょう。

また、そういう感覚っていうのは習慣やスポーツの技術と同じように、練習し続けないと下手になっていくのだと思います。日々の生活の中で、確実さなど永遠に手に入らないと、何度も何度も新しいもを生み出し続けながら、体に刻みこんでいこうと思います。